『チエちゃんと私』 よしもとばなな 文春文庫

だから、私はある時点からまじめに何がしたいかを考え、何ができないかだけを考えた。いたずらに成り行きにまかせてだらだら生きるほどには、非現実的ではなかった。私のしていることは瞬間を読んでは考えを変えていくゲームであり、私にとってはそれが人生だった。大事なものが始まったある瞬間というものは必ずあるものだ。(P49)

昔の私は、チエちゃんについて回って、チエちゃんの要望をなんでも受け入れて、甘やかして、チエちゃんが私なしでは一日も過ごせないくらいにまで持って行って、それで、何かあったらあっさりと次の生活に行くような人間だった。「その日にできることを、今可愛く思う相手に、思いっきりぶつける、明日のことなんて考える余裕もない、それが愛だ」というような言い訳をして、自分の執着をみたしただろう。
でもなぜかそれをしなかった。はじめ、あれこれしてあげようとしてみたものの、チエちゃんにあまりにもはっきりとした自己があったので、無理強いしているような感じがしてきて、チエちゃんのしたい生活を尊重するのが愛なのかもしれない…という考えがふと芽生えたのだ。その亜考えが大きくなったからこそ、巨大な空間が二人の間に育ったのだった。私がいなくても大丈夫なチエちゃんでいてもらうこと、それが今の私の愛だった。(P99)

「でも、そこが人というものの弱いところで、サーフィンをする生活が数年続いてルーチンになってくると、いつかの天候、そのときの波と比べるようになってしまうし、波のことがわかったような気になってきてしまうみたい。それでけがをして、また反省して、またケガして、を繰り返す人はとても多いよ。同じところをぐるぐる回ってるのには気づいてないの。実は違うんだと思うんだ…。毎回違う波だという風に思えることのほうが、似た波を分類するよりも大事なの。天気の分析は欠かせないものだし、するべきなんだけれど、同じような天気と波があると思ってしまうのはとても傲慢なことで、同じようなものがあるとしたら、それは自分の内面のほうであって。世界のほうではないの。これって、自然はすごいって話じゃないよ、全然。自然以外も、すべてのことがほんとうはそういうふうに毎回少しずつ違っているのに、広すぎて怖いから、人間はいつでも 固定させて、安心しようとするの。知ってることの中に。」(P126)

「でも、チエちゃんはほんとうに花が枯れる瞬間まで、花の様子に任せることができるの。私にとって、時間はおおざっぱに先へ先へと進むものだった。でも、チエちゃんの瞬間はもっともっとより細かい瞬間に分かれていって、それはもはや永遠だし無限なの。チエちゃんの一瞬には百万の世界がめくるめく色彩で展開しているみたいなの。私はそれを学んだ。私の退屈はそれですっかり消えたのよ。」(P198)

たとえば私が、
「チエちゃんはどうしておみそ汁は作れるのに、あと一歩頑張ってご飯を作ってくれないのだろう?いまいましいな。」とか、
「旅行に行きたいけれど、店長になってしまったからいけないな。」とか、
「昨日のお客さんとても感じが悪かったなあ、どうしてあんな人が来るんだろう。」とか、
「おばさんはほんとうにハデ好きで困る、もっと地道な商売が大切よね。」とか、
「山田店長今頃忙しいんだろうな、ざまあみろ。」とか、
「篠田さんは男のくせにどうしてもうひと押しして私を誘ってくれなかったのだろう、私がもう歳だからかしら」
とか思うタイプだったら、今頃ものすごく不幸だろうと思う。
(P204)

味噌汁を作ってくれているということに目を向けられない。
何かのせいにする。
自分が変えられないことに不満を持つ。
自分の考えのみが建設的であると考え、他の人の考えのいい部分に目を向けない。
ねため。
被害妄想。

チエちゃんが朝顔の種や苗を買いに行くのか、中古のパソコンを吟味しに出かけるのか、家にずっといるのか、そうじを何時から始めるのか、私にはわからない。でも、チエちゃんを見ていると幸せになってくる。そんなときチエちゃんはまるで作曲をするように、今日一日特有の歌を、その旋律を読んでいるのだ。その様子を見るだけで、私の中でルーチンは消える。(P216)


チエちゃんと私 (文春文庫)

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