多様性社会におけるコミュニケーション能力

人によって考え方が異なることは悪いことではない。コミュニケーションの前段階は、自分と異なる考え方の人がいることを自覚することから始まる。他者の話に耳を傾けるとその人の自分とは異なる賢さに気が付く。他者の考えは自分では気づかなかったこと考えが及ばなかったことを教えてくれる。つまり、コミュニケーションとは自分を成長させアップデートさていくためのツールなのだ。

相手の話を聞いたとき、それが自分の考え方と違っていても、自信をもって自分の意見を伝えよう。考え方が異なることは悪いことではない。自分の意見を伝えることで、自分が相手と正面から関係を築きたいという気持ちが伝わるのだ。(もし意見が異なることで腹を立ててしまう人ならコミュニケーションの土台がまだできていないので一旦あきらめよう)

自分が受け入れられない思想を持ってる人でも社会に役立つ高い能力を有していることは多い。人間性と能力は分けて捉えなければ人々の能力を生かせる社会を作ることはできない。

今後社会はどんどん多様化していくため、多様化した社会の中で活動していける能力が必要になる。考え方が違うからといって閉じこもってしまえば、その社会の中で生きていくことは難しくなるかもしれない。

コミュニケーションとは相手と関係作りをすることである。相手は何が好きなのか、どんな考え方をするのか、何をすると不快なのかを観察し、その違いを受け入れることだ。

こういった能力は学力テストや偏差値では測定できない。しかし多様化した社会では間違いなくこういった能力を育成していく必要がある。今後の教育はそういった人材を育成していく方法を模索していくことになるだろう。

教員免許更新講習で学習したことの整理

横尾忠則 対談「3人が集まった日。」ほぼ日刊イトイ新聞

もともと人間は完成して生まれてきてないじゃない?
未完で生まれてきている。
だから何かを完成させる必要はないと思うんです。
未完で生きて未完でものを作って、
未完で死ねばいいんじゃないかな。

横尾、細野、糸井、3人が集まった日。 - ほぼ日刊イトイ新聞

『夜と霧』 ヴィクトール・E・フランクル みすず書房

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きること意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。(P129-130)

人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。(p123)

しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかったものは、収容所内では破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。(P125)


夜と霧 新版

夜と霧 新版

『こどものための哲学対話』 永井均 講談社

ちゃんとした人っていうのは、自分の未来のために自分の現在を犠牲にできる人のことなんだ。逆に自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃうのがどうしようもないやつさ。(中略)善人や悪人になれるのは、ちゃんとした人だけなんだよ。どうしようもないやつは悪人にさえなれないんだ。(P69-70)


子どものための哲学対話

子どものための哲学対話

『マネジメント(エッセンシャル版)』 P.F.ドラッカー ダイヤモン

技術系の人は、「うまくいかなくなりそうなものは、いずれうまくいかなくなる」というマーフィの法則を口にする。だが事態が複雑な場合には、さらに第二の法則、ドラッカーの法則と呼ぶべきものが働く。すなわち「何かがうまくいかなくなると、すべてがうまういかなくなる。しかも同時に」(P245)

いかに集中が望ましくとも、多角化との調和が必要である。さもなければ過度の専門家に陥る。同時に、いかに多角化が望ましくとも、あるいあは避けがたくとも注中が必要である。さもなければ分裂と分散に陥る。単純さと複雑さはともに必要である。単純さと複雑さは事業を反対方向にひく。この二つを対立させてはならない。調和させなければならない。共通の軸によって多角化を一体化することこと、トップマネジメントの仕事である。(P248)

分離に際して検討すべき問題は、「いくらで売りたいか」ではない。「誰にとって価値があるか」である。「娘の相手を探すときは誰が良い夫になるかを考えるな。誰の良い妻になるかを考えよ」とのことわざの通りである。(P253)

成長そのものを目標にすることは間違いである。大きくなること自体に価値はない。よい企業になることが正しい目標である。成長そのものは虚栄でしかない。(P260)

マネジメントに携わる者は、第一に、必要とされる成長の最小点について検討しておく必要がある。声明を維持していけるだけの地位は確保しなければならない。さもなければ限界的な存在となる。不適切な規模となる。市場が拡大しつつあるならば、組織もまたその生命力を維持するために成長していかなければならない。(P261)

イノベーションイノベーションたらしめるものは、科学や技術そのものではない。経済や社会にもたらす変化である。消費者、生産者、市民、学生その他の人間行動にもたらす変化である。イノベーションが生み出すものは、単なる知識で半句、新たな価値、富、行動である。(P266)

イノベーションの尺度は外の世界への影響である。したがって、イノベーションは常に市場に焦点を合わせなければならない。市場ではなく製品に焦点を合わせたイノベーションは新奇な技術は生むかもしれないが、成果は失望すべきものとなる。(P267)

自分で仕事を進める時の行動指針になります。自分のやりたいことと、成果とのバランスをとる必要があるということでしょうか。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

『マネジメント エッセンシャル版』 P.F.ドラッカー ダイヤモンド

仕事の生産性を上げるうえで必要とされるものと、人が生き生きと働くうえで必要とされるものは違う。(P57)

未来学者がユートピアとして描く労働のない社会は本当に実現するかもしれない。しかしそのとき、人は人格の危機に直面する。労働の必要がなくなるとの予測を裏付ける兆候が皆無であることは幸運とすべきである。
大昔から、働くことは、集団に属して仲間を作る欲求を満たす手段だった。アリストテレスが、人は社会的動物であるといったのは、人は社会との絆のために働くことを必要とするといったのである。(P59)

さらに基本的なこととして、成果すなわち仕事からのアウトプットを中心に考えなければならない。(中略)いかなる道具を、いつ何のために使うかは、アウトプットによって規定される。(P62)

人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みの故であり能力の故である。組織の目的は、人の強みを生産に結び付け、人の弱みを中和することにある。(P80)

それらの組織が果たすべき最大の貢献、すなわち最大の社会的責任とは、自らに特有の機能を果たすことである。したがって最大の無責任とは、能力を超えた課題に取り組み、あるいは社会的責任の名のもとに他から権限を奪うことによって、自らに特有の機能を遂行するための能力を損なうことである。(P105)

個人にとって仕事とは、・経済的側面、・社会的側面、・ワークライフバランス ・遊びとしての側面くらいだと思います。書かれてあるようなことを仕事の上では理解できていないといけないんですね。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

『永遠の子ども』 フィリップ・フォレスト 集英社

死亡通知上の上で、ガンはコード化され婉曲に表現される。死者は「長く残酷な病」で亡くなられた。(中略)通知状を書くのは生き残ったものである。彼らには病気は、ときに長すぎ、果てしなく思える。彼らが選ぶ形容詞が彼らの焦燥感、これを早く終わらせたいという欲望、生きている者の間で有効に使うべき時間を死にかけているものが不当に奪っているという残忍な信念を、具合悪く明かしてしまう。

ジョイスは書いている。『センチメンタリズムは、それとの間で契約した実際の負債を支払うことなく、感動を享受することである。』(P292)

かわいい盛りの4歳のひとり娘を小児がんで亡くした著者の作品です。愛する者の死は、何をもってしても埋めることができないということを改めて教えられた本でした。
著者は、同じく一人息子を亡くしている小林一茶の「露の世は 露の世ながら さりながら(この世が露のように、はかないものだとは知っていた。だがそれにしても…)」という句にまつわる本ものちに書いています。人間は死を直視できなくても、それは当たり前なのかもしれないと考えさせられました。