『車輪の下』 ヘルマン・ヘッセ 新潮文庫 3

誰がより多くのひどい苦しみを受けるか。先生が生徒から苦しめられるのか。両者のいずれがより多く暴君であるか。両者のいずれがより多く苦しめ手であるか。他方の心と生活とを損ない汚すのは、両者のいずれであるか。それを検討すれば、誰しも苦い気持ちになり、怒りと恥じらいとをもって、自分の若い時代を思い出すのである。しかし、それは我々の取りあぐべきことではない。真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、良き作品を作り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもって我々は慰めとするとのである。こうして、学校から学校へと、規則と精神との間の戦いの場面は繰り返されている。そして国家と学校とが、毎日現れてくる数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めているのを我々は絶えず見ている。しかもいつもながら、ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちに我々の国民の宝を富ますものとなるのである。(P118,119)

車輪の下、というタイトルは、『踏みにじられる』ということに由来していると思います。踏みにじられるのは、若者であり、踏みにじるのは学校である。大学時代、親友と教育実習を修めました。ずっと、教員を目指していたその親友は、教育実習後、教員志望をやめる決断をあっさり下しました。「思ってたような仕事じゃなかった。」彼のそんな台詞が頭に浮かんできてしまいます。
ひとつ前のエントリーとあわせると、教員は、踏みにじるのが仕事であり、踏みにじられることで幸せになる人もいる。しかし、本当の才能は、教員によって手折られるようなものでもなく、結局、真に才能あるものは、学校教育のそとからやってくるのである。ということなのでしょうか。



車輪の下 (新潮文庫)

車輪の下 (新潮文庫)